美女の基準は顔だけで決まるものではありません。
カラダの一部が、美女の条件となる文化・時代もありました。
今回、ご紹介したいのは中国の「纏足」です。
「美のためには、なにかを犠牲にせねばならない」という考え方は、今でもあると思われますが、それが極端なまでに突き詰められたのが「纏足」という恐るべき習慣でした。
諸説ありますが、纏足技術が生まれ、中国女性の足が小さくなったのは10世紀以降。南宋時代がはじまりだったともされます。当初は約17センチ~18センチ程度の大きさで合格点だったのですが、明(1368~1644)の時代になると、理想の足サイズはさらに縮んで約10センチとされてしまいました。
纏足は中国でも、漢民族を中心とする風習です。ですから支配層が漢民族以外、たとえば皇帝が女真族出身の清(1636~1912)の時代になると、衰えるかといえば、まったく違うんですね。
たしかに清の乾隆帝は、「纏足禁止令」を出し、後宮には纏足された女性は入れず、もし入ったところで纏足だと判明すると処刑させるほどに嫌って“見せて”いました。
▲乾隆帝(1735−1796)
しかし実は乾隆帝は、纏足された女性が好きで、漢民族の小さい足の女性を愛人にしてかわいがっていました。これは1928年、乾隆帝の陵墓が発掘され、彼に殉死した愛人女性の遺体の調査が行われて判明した事実です……。
纏足ができるまで(閲覧注意レベル:1)
纏足が美女の条件とされていた時代、(主に)漢民族の家に女の子が生まれると、4~5歳にもなれば彼女を地獄が待ちうけていました。まず祖母や母といった女親が、彼女の足の甲の骨をバッキリと、真っ二つにヘシ折るところから纏足のスタート。
その後は足の甲の骨を左右に折り曲げ、余分な肉は腐らせ、ナイフで削り取り、包帯でくくりつけ……と、ものすごい過程を経て人体改造していくのでした。
そうやって「完成」したのちも纏足の状態を保つには、布できつく縛り上げて固定するなど、大変な苦労がいりました。纏足は庶民も行いましたから、そんな足で家電もない時代に家事労働するのは非常な苦痛を伴うものでした。纏足は、女性の人生がめちゃくちゃになりかねない行為だったといえます。
しかしそれでも、かつての中国では纏足こそが美女の条件でした。
纏足の最大の美とは、内折(ないせつ)にあり、といわれていました。足の甲が、真っ二つに折られて折り曲げられたがゆえに、くぼみができているのですが……これは女性器の形を模しているといわれます。女性の纏足に頬ずりなどして、男性はたいへんに喜んだそうで、纏足は夫婦円満の要だとされたのです。
一般的には纏足は20世紀初頭、清の滅亡と共に姿を消していったと説明されますね。また纏足された足を美しいとする価値観も廃れた……ともされがちなのですが、実は21世紀初頭の時点でも、中高年以上の女性の何割かが纏足である村落も広い中国の中には存在しているのです。
実録:纏足、わたしの場合 (閲覧注意レベル:5)
これ以降は、「美」のためにすべてを犠牲にさせられた老女の独白が非常に恐ろしい内容になっているので、心臓の弱い方は読むのはおすすめできません。
雲南省の通海県には通称・纏足村の類が点在し、現在でも1000人以上の纏足女性が暮らすとされます。作家・楊楊による驚愕のレポート(邦訳『さまよえる霊魂―――中国最後の小脚村落』)に、呉楊氏という老婦人の発言が乗せられているのですが、纏足作業の中で彼女の祖母や母親の見せる顔がそれは恐ろしいのです。
少女時代の呉楊氏は、母と祖母の二人がかりで纏足をほどこされましたが、足はなかなか小さくなりませんでした。最初はいにしえのルールどおり、足の甲の骨を真ん中から折り曲げていくのですが、彼女の足はただ腫れ上がるだけでした。
腫れるだけではダメなのです。ムダな肉を腐らせて、溶かしてしまわないと……。
ついに母親は怒り、呉楊氏に「お前の男のような足はどうしてまだ腐らないのだろう!」といい、祖母は「対策を講じるべき」として、古い茶碗を呉楊氏の腫れ上がった足に叩きつけては割り、その破片を肉に食い込ませてから包帯でグルグル巻きにして圧迫したそうです。
血が吹き出ても放置されているので、やっと肉が腐り始めました。ハエの群れが彼女の回りを飛び回り、「心の中は真っ暗であった」そうです。それでも肉の腐り方がかんばしくないため、祖母はついに「古壁の隙間のなかから、黒い虫を数十匹捕まえ、血が流れ肉が爛れている小脚の中に生きたまま埋め込んだ」。
このような纏足作業中に死んでしまう女の子も1~2割ほどおり、纏足らしきものは出来ても、足が「美しく」理想の形や大きさにならない失敗例が7~8割。
これだけの思いをして理想の足の持ち主になれるのは、全体の1割程度でした!
施術に成功してもしなくても、身体の傷が回復しても、母親や祖母の隠された一面を知ってしまった女の子が、その後、陽気に成長できるわけがありません。小さな足は女性の美しさだけでなく、貞淑さのシンボルなどともされてきましたが、そんなノンキなものではあるわけないのですね。
調べれば調べるほど纏足とは恐ろしい、「美のための犠牲」だったようです。